市民の怒りが国家を超えるとき

~アメリカの暴動と日本の未来~


はじめに:「暴力」とは何か?

2025年6月、アメリカ・ロサンゼルスで再び暴動が発生した。

発端は、黒人男性が警察の拘束中に死亡した事件。

目撃者のスマートフォンによって撮影された映像がSNSで拡散され、市民の怒りが広がりを見せる。

最初は静かな抗議活動だったはずが、瞬く間に暴徒化し、略奪、放火、道路封鎖、そしてついには海兵隊の出動要請にまで至った。

「またか」と思った人も多いかもしれない。

しかし、それが“アメリカだから”ではないことを、私たちはどこかで感じ始めている。

これは、遠い国の治安の問題ではない。

これは、「国家に見捨てられた」と感じた市民の“最後の言葉”なのだ。



抗議と暴動、その間にあるもの

デモと暴動の違いは、単なる手段の差ではない。

それは「希望」の有無だ。

静かなデモには、まだ期待がある。

相手が聞いてくれるかもしれない、社会が変わるかもしれないというわずかな可能性に、行動が支えられている。

だが、その声が無視され、踏みにじられたとき、抗議は絶望へと変わり、「破壊」という最後の表現手段が現れる。

ロサンゼルスで燃え上がったのは、警察車両やショッピングモールだけではない。

「国家に対する信頼そのもの」が炎に包まれたのだ。

そしてこれは、アメリカに限った話ではない。



日本にもある「静かな怒り」

日本では暴動は起きない。

そう言う人は多い。

確かに、街頭で火を放つような光景はほとんどない。

しかし、本当にそうだろうか?

本当に、私たちの社会は「怒り」と無縁なのだろうか?

● 老後不安を抱えた年金生活者が、黙って食費を削る

● 保育園にも入れず、親の介護にも苦しむ現役世代が、「もう限界です」とSNSにだけ呟く。

● 経済的に困窮しても、生活保護にたどり着けず孤独死する高齢者が増え続ける。

これらはすべて、「声なき怒り」のかたちだ。

叫ぶことも、暴れることもない。

ただ静かに、諦め、信頼を失っていく。

その末路は、確実に社会の崩壊に向かっている。



国家と市民の「断絶」

なぜ人は国家に怒るのか?

なぜ人は行政に不信感を持つのか?

その理由の多くは、「届かなかった」からだ。

支援制度の存在はあるが、情報が届かない

苦しい立場にある人ほど、制度の利用に壁がある

声をあげても、「自己責任」と突き返される

つまり、制度が「ある」だけでは足りない。

それが「使える」かどうか、「信頼できる」かどうかが、本質だ。

日本でも、生活保護や子育て支援、空き家対策、相続登記など、多くの制度が整っている。

だが、それを「人に届ける仕組み」や「気持ちを受け止める窓口」が欠けている。

国家と市民の距離が、制度の網目の中でじわじわと広がっている。



行政書士の現場から見える「制度のすき間」

私は行政書士として、日々、制度と市民の間に立つ仕事をしている。

相続手続き、空き家対策、建設業や宅建業の許可、帳簿の整理など。

一見すると“書類仕事”のように思えるかもしれない。だがその実態は違う。

そこには、「誰にも頼れず、制度の扉をたたけずにいる人」たちの現実がある。

● 誰にも相談できないまま、10年放置された空き家

● 相続の権利を知らないまま、財産を手放していた人

● 支援制度の申請書が読めず、諦めていた外国人の方

そういった人々に接するとき、私は思う。

暴動は起きていないけれど、社会の中に確実に「無力化した市民」が増えているのだと。



社会が壊れる前にできること

暴動を止める方法は、警察力や法律ではない。

暴動が「起こらないような社会」をつくることだ。

そのために今、私たちができることは何か。


1. 情報を“翻訳”する

専門用語ではなく、わかりやすく説明する力。

制度を「見える化」する努力が求められている。


2. 行政を“人”に戻す

「窓口対応をAIに任せる」ではなく、

困っている人に寄り添える人間的な対応を大切にすること。


3. 地域の「つながり」を育てる

自治体・NPO・行政書士・民間事業者など、垣根を越えて連携し、

孤立を防ぐネットワークを築くこと。


4. 小さな声に耳を傾ける

声を上げることが苦手な人の方が、実は助けを必要としている。

そういう人たちの存在を、想像力で“感じる力”が必要だ。



終わりに:「怒り」は社会からのSOS

ロサンゼルスで燃えたのは、建物ではない。

国家と市民との“信頼関係”だった。

そして日本でも、声なき怒りが、制度の網の目をすり抜けて蓄積されている。

それは静かだが、確実に社会を蝕む。

だからこそ、私たちは行政の現場で「聞くこと」「伝えること」「届けること」を続けなければならない。

制度とは、人のためにあるものだと、もう一度立ち返る必要がある。

怒りが暴力になる前に。

怒りが言葉に変わるうちに。

信頼の再構築は、まだ間に合う。



今回は少し批判的な内容になってしまいましたが、

日本でもそろそろ起こりうることではないかと思う。

特に国を動かしている人たちは本当に国民の為と思って行動しているのか?

最近そうは思えないことだらけのように感じる。

そんな思いからこのような文章になってしまいました。


喜多行政書士事務所

喜多行政書士事務所

香川県の西の端 観音寺市の行政書士事務所です 許認可申請 書類作成 各種手続などの基本業務のほか FPとして資産設計提案業務もしております 困った顔が笑顔になり大きな喜びとなるようにをモットーに 小さい事務所ではありますが日々研鑽しながら頑張ってます どうぞお気軽にご問い合わせください

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